「ああ、うまかった。奥さん、ごちそうさまでした。」
「お口に合いまして?」
「いやあ、もう、感動です。あったかい味噌汁にキャベツの千切り、つくだ煮とおしんこと目玉焼き、こんなまっとうな朝食を食べたのは何年ぶりだろう。」
「昨夜はちょいと飲み過ぎた。泊めてもらった挙句、朝飯までごちそうになって、感謝感謝。」
「今日は休みだし、どうせ大した用事もない。ゆっくりしていけよ。」
「お前のところは羨ましいよな。突然押し掛けたのに文句ひとつ言わず、あんなにきれいな嫁さんが、毎朝飯を作ってくれるっていうんだから。」
「ああ、その点じゃ、感謝している。」
「俺の女房なんか、俺が会社に行くとき起きてきた試しがない。まったく、爪の垢でも煎じて飲ませたいよ。」
「そうでもないさ。これはこれで大変なんだ。」
「なんだ、不満でもあるのか。あれだけいい嫁さんに朝晩飯を作ってもらって文句言ってたら、罰が当たるぜ。」
「さっき、目玉焼き食べただろう。」
「ああ、最高にうまかった。黄身がふっくらして中はトロトロ、白身の縁が少しだけ縮れて、まさに俺の好みだった。それがどうした。」
「毎朝なんだ。」
「いいじゃないか。卵は健康にいいんだぞ。あんなにうまい目玉焼きなら毎朝食べたい。」
「365日、毎朝でもか?」
「作ってくれるんだからいいじゃないか。」
「断固として目玉焼きなんだ。卵焼きでも、ゆで卵でも、オムレツでもなく、目玉焼きなんだ。毎日毎日、判で押したみたいに。」
「ふうん、徹底してるんだな。だが、他の者が食いたいなら、奥さんにそう言ったらいいじゃないか。」
「言ったさ。何度もね。」
「立ち入ったこと聞くようだが、お前ら夫婦仲悪いのか?」
「別に仲違いしているわけじゃない。ほかの家とそう変わらないと思うね。無論、若い頃みたいに始終手をつないでいるなんてことはないが、取り立てて喧嘩をしたこともないし。来年はもう銀婚式だ。」
「何か理由でもあるのかな。」
「ある朝、何気なしに言ったんだ。おふくろの目玉焼きは美味しかったなって。もう亡くなって大分たつが、おふくろは料理が上手だった。中でも目玉焼きは最高で、黄身の滑らかな食感とプリッとした白身の舌触り、焼けるにおいや油のはじける音、湯気の立つ感じまで、五感に刻み込まれている。ギンガムチェックのテーブルクロスに家族の笑顔、毎日が明るく輝いて、何の不安も恐れもなかった。
おふくろの目玉焼きは本当に美味しかった。」
「ほう。」
「それ以来8年と10か月、あいつは毎朝目玉焼きを作っている。」
「なるほど。」
「その時まで俺は、彼女のことなら何でも分かっている気になっていた。そこそこに長い年月を一緒に暮らしてきたんだから。」
「ケツに生えてる毛の数までってか。」
「うん、まあね。が、肝心のところは何もわかってなかったのかもしれない。お互いにね。」
「女心はわからんよ。が、ともかく、こんなにうまい目玉焼きなら、毎朝だろうが何だろうが、文句言うのは筋違いだ。うちのやつの料理なんか、てんで話にならないぜ。」
「ああ、まずくはないさ。しかし、おふくろの目玉焼きは美味しかったな。」