通っていた中学校の校庭に桜並木があった。
校歌の歌詞にも入っていたので、開校まもなく植えられたのだろう。
花の時期にはなかなか見ごたえがあった。
正門を入ってすぐ、表通りと職員室に挟まれた細長いエリアで、例年3年生の掃除分担場所だった。
春の花殻と花びらの掃除は1週間ほどで終わり、新緑の中で鬼ごっこや追いかけっこをして時が過ぎるのを待つ。
夏は木陰で涼しく、これまた、何もすることがないので、箒を振り回している内に終了時間になる。
問題は秋だ。
木の葉が色づき始めると間もなく落ち葉の季節となる。
来る日も来る日も、掃くそばから葉が落ちてくるので、達成感の得られない苦行となる。
いらだった悪童たちは、太い幹に飛び蹴りを浴びせたりした。
一時、そこそこの量の落ち葉は降るが、その後何事もなかったように、木々は粛々と葉を落とし続ける。
禅の公案にまさしく、「絶え間なく降る落ち葉の掃除、あなたならどうする?」というテーマがあるらしい。
お釈迦様の直弟子の周利槃陀伽(しゅりはんだが・チューラパンタカ)の逸話も有名だ。
自分の名前すら覚えられず、名前を書いてもらった札を首からぶら下げていたという。
なんだかんだで、仏門に入ったはいいが、お釈迦様のお話に感動しても、聞き終わったとたんに忘れてしまう。
自分の愚かさを悲観していたら、お釈迦様は彼に一本の箒(ほうき)を与え、お経なんか覚えなくていいから、「塵を払い、垢を除かん」これだけ唱えながら毎日掃除してなさいと。
その後彼は悟りを開き、高僧として語り継がれている。
胡散臭い話だとも思う。
公案の答えも、その後何十年も考え続けて、まだわからない。
が、最近つらつら思うのは、今、目の前にあることだけに集中して過ごすと、スッキリすることは確かだ。
生きている限り、落ち葉は降ってくる。
陽の光も、雨も、場所によっては爆弾まで降ってくる。
目の前にある落ち葉、今自分がここにあることを常に手放さずにいるのは、えらくしんどいことだ。
確かにそうできたらいつもスッキリで、それが「悟り」というものかもしれない。
