「白湯」が販売されている。
2022年からだという。
以前見たTV番組の中で、水道局の人が「飲めないような水は作っていません」と胸を張っていた。
実にシンプルで明快な発言で、頼もしく感じたことを覚えている。
駅のホームには必ず水飲み場があったが、最近は次々撤去されていると聞く。
公園にも水飲み場があるが、使う人は稀だ。
自販機のペットボトルは持ち運び便利だし、設置側にも金が落ちる。
不労所得の雑収入はみんな大好きだから、自販機の設置は留まるところを知らない。
小説の中(戦後まもなくの頃か?)で、主人公が旅行にネッスルのインスタントコーヒーを持参する件があり、趣味の良いグルメで現代的な人物描写の小道具に使われていた。
今なら、相当ショボい男にしか見えない。
自分もあっという間に洗脳されている。
お茶のペットボトルが出たときは驚いたが、急須はとうの昔に処分した。
カルピスもめんつゆも、以前は希釈タイプだったのが、そのまま使えるストレートが主流。
濃いめ、甘め、カロリー控えめなど、バリエーション豊富。
居住スペースの中で水分量は膨大になり、輸送コスト、容器代、冷蔵庫の電気代、倉庫の保管料、ペットボトルの処分コスト。
少しばかりの便利さのために、どれだけの犠牲を払っているのだろう。
果たして必要なのか、もしかしたら金儲けのカモにされているだけカモ。
環境破壊も加速するばかり。
かなり前に見た現代劇で、題名も作者も忘れてしまったが、印象に残る作品があった。
舞台中央に水道があり、蛇口からポタ….、ポタ….、と水滴が落ち続ける。
場面にもの登場人物にも何の変化もないまま何十分も過ぎ、座席に座っていること自体拷問のように感じ始めた頃、ふいに役者の一人が水道に歩み寄り、水を飲もうとする。
手を伸ばすと同時に水滴が途切れる。
最高にチープで人を食った作品だが、記憶から消えない。
ずうっとそこにあって、いつも手にできる、取るに足らないように思っていたものが、ふいになくなる。
私たちは大切にすべきものを間違えているのかもしれない。
